焼肉屋開店までもう少し

先日、我ながら誕生日を迎えさせていただいた。
なんてことはない、人生は頑張っていたってサボっていたって誰でも1年経てば歳をとる。これこそ世の中で唯一平等なことではないだろうか
20代前半の頃は誕生日を盛大にやってもらったり
たくさんの高価なプレゼントをもらったりあげたりしたが
この歳になるとそんなことはどうでもよくて
できることならいつもと変わらない静かな日常がまた来年も続いて欲しいと願う
だからよく会社の子などから
誕生日に何か欲しいものはないですか?と聞かれるのだが
ハッキリ言って本気で欲しい『物』は1つもない
そんなことよりも僕が本気で期待していることは
僕がアメリカへ行ってしまったあと
自分たちの力で会社を継続成長させ
なんなら僕を必要とせず自分達のものにしてほしい
それが叶うなら、僕は見返りなど1つも望まず全ての国内の事業からいつでも抜ける心の準備はできている。
まぁ敢えて欲しい物を言うのなら、
UNIQLOの真っ白な無地のTシャツをたくさん欲しい(笑)
飲食業に進出した10年前
ちょうど10年前の29歳の時に僕は念願だった飲食業を始めた
正直、当時大した苦労もしたことのない僕の野望は酷かった
飲食店を始めてどうなりたいかって、
飲み屋のお姉ちゃんを連れ回して自分の店で偉そうに振る舞いたかった
我ながら酷いビジョンだが当時本気でそう思ってた。
そんな夢は開店当日で脆くも崩れてそんな気持ちじゃ飲食店は続けていけるほど甘くはないとあっと言う間にうち壊されたが
なんの業種にするか
そんななんの理念もない酷い夢だったから
飲食店を開店するにあたってなんの業種をやるかもそれは酷い決め方だった
とりあえず候補に上がったのは好きだった
ラーメン・焼き肉・焼き鳥
の3種類だった
補足すると実はなぜかそこに飲食でもないのにコンビニも入っていたが、
ファミマとセブンの概要を問い合わせると毎月のロイヤリティが売上の6割にも当たり即決で却下した
ラーメンは大好きだったのだが毎日食べると体に悪すぎるだろうと思ってこれも却下。現に友達のラーメン屋でまかないラーメンを出していたら年に3人も入院したらしい…
焼肉もまた大好きだったのだが、当時尊敬するほど美味い焼肉屋があってどう考えてもそこに勝てるとは思わなかったのと、飲食店で働いたことも料理の知識もない自分には『良い焼肉屋』を創るなどということは到底できないだろうと考えた。焼肉業界は弱肉強食だ軽い気持ちで生き残れるほどは甘くはない。なんせ僕はキャバクラのお姉ちゃんをはべらかすのが目標だからたかだか知れている
そこで残ったのが焼き鳥だった
焼き鳥なんてどこも大して変わらない味だから僕でもできるだろう
焼き鳥はブームも無さそうだが廃ることもなさそうだ
またこんな浅はかな考えで業種を決定してしまった
上記からも分かる通り基本世の中を舐めている
そりゃそうだ
25歳でLEXUSに運転手付けてタワーマンションに住んで愛人つくって毎晩飲み歩いていた日々だ
人生なんてチョロくてなんでも叶うと思っていた29歳
究極の焼き鳥家ゴキゲン鳥
そんな浅はかな薄っぺらい気持ちで始まったのがゴキゲン鳥だった
小学校からの同級生の純と一緒に
今はゼロだけれど究極を求めていつか納得のいく完璧な焼き鳥屋にしようと思って付けた名前だった
それでもその時お世話になることになった焼き鳥屋の社長に言われた一言で覚悟は少し変わった
一緒にメニュー作りをしていると
「居酒屋で生ビールはだいたいいくらか社長知っていますか?」
と聞かれたので
自信満々に「1000円くらいですかね」と答えると
「それキャバクラです」と即答されてダメ出しされた。
その時のその焼き鳥屋の社長に言われた事
・金銭感覚を直すこと
・社長が現場に出ること
この2つを課代として出された
当時の毎晩キャバクラでチヤホヤされていただけの僕にとってはとても難しい課代だったが
僕はその日から電車に乗って焼き鳥屋の修業に通った
乗り換えの難しいさ、Suicaの買い方、終電の激しさ、僕にとってはそのどれもがハードだったがどれもが新鮮だった
それにつけ加えて、
物件探し、メニュー作り、ブランディング、取引先の選定、それらを朝早くから行ってお昼過ぎから今度は焼き鳥屋に仕込みと焼きの修業に行く
毎日眠くて眠くて仕方なかった
ある時、純と椎茸を焼きながら立って寝てた
それでも初めて自分で焼いた砂肝をお客さんが
「美味しかったよまた来るよ」
と言ってくれた時は、キャバクラでシャンパン入れてチヤホヤされてるどの時よりも嬉しかった
世の中にはこんな素晴らしい仕事があって
世の中にはお金をもらっているのに「ありがとう」と言われる仕事があるんだと心底感動した
それまでに僕がして来た仕事は
インターネットでエロサイト作ったり、ダイヤルQ2みたいなことだったり、ちょっとまともになっても、ガールズバーやホストクラブの運営だった
それらの仕事を否定するつもりはないが、
そのどれもがその場で楽しんでるお客さんはいてもお金を払う時や少なくとも次の日には酔いが覚めて後悔しているお客さんばかりをつくる仕事だった
だから飲食店で「美味しかったよありがとうまた来るよ」という言葉は僕にとっては不思議でしかたんかったのだ
なんでお金を払ってる人が喜んでいる?
偏屈な心かもしれないがそれが20代不誠実な生き方をしてきた僕のまともな考えだった。
あれから10年
上の話はまだ29歳の僕がゴキゲン鳥を始める前の話
そこから10年は色んな事があり過ぎてとても一言では語れない
経営者なら誰でもそうであるかもしれないがとにかくキツかった
それが本音だ
5年で100店舗にするとなんの根拠もなく宣言した目標は当たり前だが叶わず
ただただ力不足を突きつけられた
多くのものも得たけれどそれ以上に多くのものを失った10年だった
そのたびに自分に
何かを犠牲にせず何かは得れない僕だけはあきらめない
そう言い聞かせて歩んできた
ゴキゲン鳥を下北沢にオープンした時のメンバーは全員いなくなった
僕の力が至らないばかりにたくさんの子を傷つけた
もっと僕がキッチリやれていればもっと知識があればもっと経験があれば
悔やんでも悔やみきれないその思いは強さに変わった
もしも僕がたくさんのことを踏み台と犠牲にしてきたこの道が救われるとすれば
それ以上に成功を重ねて今まで犠牲にした以上に満足してくれる仲間を増やすしかないと思った
それだけが今ぼくが飲食業を続けられてる原動力だ
あれから10年経ち
100店舗どころか
現在
ゴキゲン鳥4店舗
焼肉屋1店舗
しかしそれなりに成長していることもあって
10年前にできないからやらないと言った焼肉屋に手を出して
今年新たな自社ブランディングの焼肉店舗をオープンする
10年前にはできないと思っていたけれど
今なら経験と知識を積んでできると思ったのだろうか
来年にはアメリカのL.Aにゴキゲン鳥を出店する計画だ
※アメリカだから上手く進まないことだらけだけど
国内の店舗はセントラルキッチンを拡大して店舗の労働時間を月に150時間まで持って行き、有給休暇の完全消化の仕組みまで作った
今も退職金規定などやり途中のこともあって僕がアメリカに行くまでに終わらせなきゃいけないことで山積みだ
僕が生きてる間にお店を100店舗にできるともしたいとも思わなくなってしまったし、自分のお店に飲み屋のお姉ちゃんを連れ回して偉そうに飲みたいとも思わなくってしまったけど
10年前に欲しいと思っていたものともだいぶ違うけど
欲張りな僕はまだまだ欲しいものがたくさんある
お姉ちゃんが喜ぶ店よりは未来の子供達が安心して食べれる食事を
偉そうにオーナーぶって飲むよりはいつまでも最前線にいたい
死ぬ気で働いて上に上がれる職場よりはもっと豊かに生きれる職場にしたい
儲かる仕組み創りよりは良いお店創りを
そこで働く子達がそれぞれ経営者目線になれる会社を
綺麗事かもしれないけど大好きな経営の指針の言葉のように
『道徳なき経済は罪悪である、経済なき道徳は寝言である』
綺麗事だけじゃやっていけないけど、綺麗事がなかったらそれはただの我欲だ
今度の焼肉屋はかなりこだわっていて
当時考えていたように納得の行く焼肉屋ができないのならやるつもりなんてなかった。
自信をもって美味しいと言える、大切な人を連れてこれる
そんな焼肉屋ができる
今までに色んな事業をやってきたが専務とやると僕が言う前にやることが全部終わっててあまり僕の出番が結局ないw
これが彼の強さだろう
会社で何かを任された人間が全員こうなってくれれば当たり前だが会社は僕がいなくても成長する
国内に残る人間も 国外に一緒に行く人間も
成功よりも成長できることを願ってやまない
念願の焼肉屋 自社ブランディング店舗開店まで
coming soon…
